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ゆとり教育と村社会
Feb 23, 2007
著者:

ゆとり教育とは、
「やる気のない生徒に無理にやらせない」とか、
「学習意欲の有る無しにかかわらず教える知識の量を減らす」
というものではないはずです。

教える量ではなく内容にゆとりを持たせる
というのが本来あるべき姿だと思います。



ゆとり教育から少し話がずれてしまいますが、
第2次世界大戦で日本が敗北してから、
変な平等主義がはびこってしまったような気がします。
昔は「飛び級」とか「落第」とかあったと聞いていますが、
今の義務教育では、「飛び級」と「落第」はありません。

これは、おかしなことだと思います。
日本以外の国でもどうようなのでしょうか。



学習意欲がある生徒の意欲を削がないように、
自発的学習を阻害しないのは当然のこととして、
「飛び級」という制度としての受け皿を作っておくべきでしょう。

アメリカのように、
10歳の数学を専攻する大学生がいても良いではありませんか。
大体、数学や理論物理学のような学問は、
20歳前半までが勝負といわれています。

「エリート教育はいかん」などという声が、
どこからか聞こえてきそうですが、
それこそおかしな話です。

優秀な生徒には、
それなりの場を用意して才能を伸ばすべきです。
そうでなければ、悪平等というものでしょう。



やる気のない生徒には
学習意欲を持たせるべくいろいろと工夫して、
その工夫を教師全体(教育界全体)で共有するべきです。

そして、どうしても最低限のレベルに達しない生徒は、
「落第」させるべきです。

機会は平等に与えられているわけですから、
その機会を生かせないのはいくら年少といっても本人の責任です。
ここをはき違える人がいるから、
話がややこしくておかしくなるのだと思います。

それに、最低限のレベルに達しない生徒を
進級させてしまうことの方が、
その生徒の可能性を奪っていることになると思います。

そして、「落第」をイコール「落ちこぼれ」と捉えるのではなく、
「きちんと理解するための遠まわり」だと
みんなが考える環境を作らなければなりません。



 
村社会の日本では、
機会の平等よりも結果の平等が優先されてきましたが、
そのひずみがいろいろな問題を引き起こしているのではないでしょうか。

人間、必要なら(学び方さえ解っていれば)自発的に学習するものなのです。
それを、判で付いたような学習成果を求めるのが間違っているのです。

人には個人差というものがありますから。
個人個人にあった教育をしていくべきでしょう。
それこそ「ゆとり教育」といえるのではないでしょうか。

日本の場合、教育のシステムとしての「学校」は
明治時代からほとんど変化していません。

ところが、社会は変化しています。
その社会の変化に追いついていないのでしょう。




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徒然なるままに、翁覚書
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